斉藤一歩の一歩一歩「能登半島ボランティア報告」
ほくほくの原点は、福島に住んでいたぼくが東日本大震災で被災したことです。巡り来る3月はその原点を思い返す大切な月。今年2024年はエコハウス見学会の予定を延期して、元日に大地震が起きた能登半島に赴きました。水先案内人として頼ったのが、友人の斉藤一歩さんです。一歩さんの実家はほくほくのご近所カフェ「チームシェルパ」で、ぼくたちの行きつけです。いまはアウトドアメーカーモンベルに務め、大阪に住む一歩さんが、熱心に能登に通って活動しているのを知り、メンバーが声がけしたのでした。一歩さんの現地リポートです。(斎藤健一郎)
ほくほくの事務局を担う川合英二郎さんの「ボランティアに行こう」の声かけで3月9-10日、能登半島でメンバー3人と活動してきました。
私は普段アウトドアメーカー、モンベルという会社で働いています。モンベルは災害時にアウトドア義援隊という組織を結成、今までも様々な支援をしてきました。店頭での義援金の受け付け他、実際の被災地では食料、水、燃料、そして冬の寒さに耐える防寒着や衣類を避難所へ配り提供しました。
私が最初にアウトドア義援隊として現地入りした1月4日、まだ孤立した集落がある中で行政も避難所のニーズについて、十分な情報を得ていませんでした。そこで地元の方とたくさんコミュニケーションを取りながら、必要なものを必要な方へ届ける、その繰り返しでした。そのボランティアでつながったご縁で1月中旬に再び輪島市を訪問し、避難所の方へ約100人分の炊き出しも行いました。
あれから1カ月半、現地の様子が気になります。冒頭の川合さんの一言もあり、私は今年3回目の能登へ出発しました。
ボランティアの実績を買われたため、現地での行程は一任されました。
どこに行けばいいのか?何を持っていけばいいのか?自分たちの食料はどうするか?泊まる場所は?主にそんなことに気遣いながら段取りしていきます。
1日目の朝、輪島朝市通りへ向かいます。報道にあるとおり、大火事があったところです。その光景は被災直後とあまり変わっておらず焼け野原の姿に初見は絶句します。
アウトドア義援隊の仲間がちょうど同じタイミングで現地入りしていることを知り、輪島塗の工房の片づけを手伝いました。仲間は大阪で工務店を経営しているため、重機や道具をそろえて現場にやってきています。
がれき撤去は骨の折れる作業です。トラックを使い鉄くずを近所の捨て場まで運びます。ひと通り片づけを終えた後、別の木材倉庫に移動、そこは漆器に使う大量の木材、角材が散乱した状況でした。人の入る隙がないくらいの荒れ模様、1人では持ち上げられない重い材を簡単になぎ倒した地震の恐ろしさを感じます。狭い屋内は危険と隣り合わせでしたが、工務店従業員の指導のもと、我々は声を掛け合い協力して倉庫をきれいにすることができました。
たくさんの汗をかいた1日目、やはりボランティアの少なさは見て感じ取れるものでした。もともと能登半島の交通アクセスが良くないことに加え、宿泊施設が少ないため、どうしてもボランティアの受け入れが難しいと言われています。金沢市内から往復すると、1日の活動時間は3hと限られるためあまり作業が進みません。
やること、求められることが現地でたくさん残っているのに人がいない、大変もどかしい現状です。
1日目の夕方、私たちは輪島市から能登町へ移動し、一般社団法人OPENJAPANのベースに泊まらせてもらいました。
私の知人がここで常駐でスタッフをしていたからです。残念ながら今回はすれ違いで知人が帰省してしまったため会えませんでしたが、OPENJAPANの方々は暖かく受け入れてくれました。
翌朝の朝礼、集まったボランティアは30人ほどで、各々長所を活かし各現場へ分かれて活動を行います。
トラックに乗っている私たちは昨日と同じ肉体労働で、民家の片付けや家財道具の運び出しを任されました。能登町の中心部から海沿いに西へ10㎞、鵜川地区は静かな漁師町です。初めて訪れた地域でしたが、被害状況はとても深刻でした。軒並み家が倒壊しています。地元民の方も僻地のために報道機関が一切入ってこないと言っていました。
漁師さんの立派で大きな家にお邪魔しました。震災直後はガラスが床に散乱していたそうですが、今はきれいに片付いています。ここまで掃除するのに本当に大変だったと地元の方が話してくれました。あとは大きな重い家財道具は若者たちが運ぶだけです。
トラックへ積み込みし、近くの運動公園へ捨てに行きます。運動公園は捨て場として利用され、燃えるごみから、鉄屑、家電、ガラス、畳と細かく分けられます。捨て場に車は絶え間なく往来し、そこかしこで片付けは行われているようでした。
鵜川の民家を片付けたお昼過ぎ、まだやり残したことはあるものの、時間に限りがある私たちはそれぞれ帰路につくのでした。
計3回の能登半島へのボランティア、毎回出発の前日になると緊張で足がすくみます。当然の約束として、現地に迷惑はかけられない、自分の身は自分で守る、被災地と被災者というデリケートな側面に踏み込むプレッシャーが背中に重くのしかかります。しかしながらこの少しの緊張感は持つべきです。今回同行いただいた3人のほくほくメンバーはそのことをよく心得ておりました。私たちは登山仲間でもあるので、自己管理、自己責任という意識は自然と身についています。それに体力も申し分ないです。
あとはきっかけだけでした。ボランティアに行きたい多くの方が悩んでいるように、気持ちが先行して、現地で何をすればいいの?という疑問をよく耳にします。私は運良く震災直後に現地で活動することができましたし、被災者の方と密に連絡をとり今の状況、何が必要とされているのかニーズを聞き取ることができました。アウトドア義援隊はそのような個人の繋がりも大事にしていました。「困っている人がいるなら、駆け寄って手を差し伸べましょう」ただそれを実践しているだけです。
対して今回初めてお世話になった、OPENJAPANさんは被災者の方に寄り添うことはもちろん、我々のボランティア目線にもたち、色々と段取りをして必要とされる方とマッチングしてくれます。門戸が広いこの団体は初めてボランティアに挑戦する方へ大きな味方になってくれます。
3月の能登半島はまだ寒さが厳しく山間は雪が降っていました。
しかし1月に比べると、日中の柔らかい風に春の訪れを感じます。
1月初旬、モンベルの倉庫は能登半島の付け根の羽咋市というところにあり、私はそこで寝泊まりし、毎日車で往復しながら被害が一番大きかった半島の先端、珠洲市まで物資を運びました。珠洲市までの約100キロの道のりに6時間もかかっていました。当時は道が閉鎖されている区間が多く、路面はひび割れと段差だらけ、各所で大渋滞が発生し移動にとても苦労しました。
今は道路が所々で補強され、幹線道路に以前のような段差はなくなり羽咋―珠洲間の所要時間は半分の3時間に縮まりました。道路の復旧により孤立集落は消え食料難は解消に向かいつつあります。金沢への定期バスも運行開始、1月に支援した避難所も2月で閉鎖、金沢市内の二次避難所へ移る方が多いそうです。
地元の方とお話しすると少しずつ復興に向かっていることを実感できました。
震災直後、憔悴しきった被災者の方を目にする機会もあり、見ている私が悲しくなりました。しかし今回はお手伝いさせていただいた2件とも、何としてもまた能登で暮らしたいという前向きで明るい姿勢に感銘を受けました。その変化が嬉しかったです。
ボランティアはその一助になればいいです。思えば1月はまだまだ物資が不足していたこともあり、被災者の方も必死に生きることでいっぱいでした。
元の生活を取り戻そうと動き出した今、私はようやく復興が始まったと実感できました。
能登半島は各地でキリコ祭りはじめ伝統的な習わしが多く残っています。
今年は祭典などは中止になりそうですが、いつか復活した時、多くの観光客でにぎわう能登の姿が待ち遠しいです。
珠洲はトライアスロンの大会が有名です。私もトライアスロンをかじっていたことがあるので、いつか珠洲大会に挑戦し完走、それが能登ボランティアの最終ゴールかもしれません。(斉藤一歩 1992年山梨県北杜市出身。アウトドアメーカーモンベル勤務。趣味は登山)
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